虫の息

おれは陽気なカブトムシ

拓哉

地元の友達とzoom飲み会をした。

 

全員まだ横須賀にいるとのことだった。

結婚してアパートに住んでいる奴、実家を出たことがない奴、なぜか土地を借りてプレハブに住んでいる奴。

 

3人とも小学生のころから仲が良かった。高校で離ればなれになっても頻繁に遊び、それは大学生になろうが社会人になろうが変わらなかった。

 

Kは中学時代に一層仲が良くなり、ほとんど毎日遊んでいたと思う。いつも誘ってくるくせに何をするのか、どこに行くのかを考えない奴で、しばしば口論になった。

うちでバイオハザード2をやっていたらリッカーが夢に出てきて眠れなくなったと言われたことがあるが、警視庁で働いていたころに死体を見すぎてバイオハザードが怖くなくなったらしい。隣に奥さんがいたので聞こえるボリュームでセクハラしまくった。

 

Yとは小学校までは一番遊んだと思う。メタルギアソリッドFF8スパロボα外伝、古き良きプレステ初代でよく遊んでいた。こいつにスパロボを教えてもらったせいでオタクに傾倒していった。そんなYはこども部屋おじさんになり、低賃金の配送業をやりながら風俗に通いまくってるらしい。悲しい限りである。

 

すぐキレてすれ違うと肩パンをしてきたMは、高校卒業後ねずみ講で失敗したりパチプロに挫折したり、散々なことをしてきたらしい。他にも風俗の経営に足を突っ込んで失敗、母親が行方不明になるなど大変な人生を歩んできたと聞いた。現在プレハブに住んでいる理由は絶対に教えてくれなかった。

 

こういう場だと必ず同級生の話題になる。印象に深かったのはガス銃で足を撃たれて血だらけになったり、よく墨汁や絵の具を食べさせられていたTの話だった。Tは当時金を持っていたおれにパンや菓子をたかっていた。今考えるとおそらくネグレクトされていたのだと思う。前歯がドリルのようになっていて相当きもかったが、良い奴だったので仲は良かった。

 

一緒に近所のフィリピン人のガキをいじめたり、コンビニで万引きするなど小学生なりに悪いことをしていた。しかし遅くまで遊んでも親から連絡すら来ず、夕飯も普通に食べてたし、なんなら平日に一泊していた。

 

おれが両親の親権争いに巻き込まれて実家と母のマンションをたらい回しにされていたとき、心配してくれたのはTだった。金沢区の氷取沢というバスしか通っていない地域から久里浜まで通学していたので、小学校4年生には少々つらい道のりだった。母は最初の1ヶ月は朝食もきちんと作って車で駅へ送ってくれたのだが、そのうち毎晩浴びるほど酒を飲むようになり、放置されていった。

 

バス停までは歩いて30分かかった。そこから金沢文庫駅まで15分、電車で久里浜までは15分、さらに駅から歩いて20分はかかったので、1時間以上の通学時間だった。帰りは金沢文庫駅から母が送ってくれていたのだが、仕事で遅くなるというメールが来た。バスで帰ろうと思ったが、定期券をマンションに置いてきてしまった。所持金も電車賃だけでなくなりそうだったので、一緒に帰っていたTに金を借りようとしたら、案の定一銭も持っていなかった。

 

暇だから一緒に歩いて行こうと言われたが、金を持っていなければ電車に乗れないよと伝えると、裏技があると言いおれの後ろにぴったりとくっついて改札をやり過ごした。

 

なんとなく30分くらい歩けばマンションに着くと思っていたのだが、前述したようになかなか遠いので、1時間ほど歩いたところで無謀なことに気付いた。8月の日差しは強く、飲み物もなかったのでどうしようかと思ったが、Tが余裕じゃね?と言うので負けじと歩いた。

 

マンションまで2時間はかかっただろうか。母はまだ帰宅しておらず鍵が閉まっていたが、窓から侵入することに成功した。エアコンのリモコンがどこにあるかわからず、蒸し暑い部屋でゲームボーイをしていた。お菓子もジュースもなくて何もお礼ができないことをTに詫びると、友達なんだからいいんだと笑顔で言われた。

 

Tは中学卒業後、同級生のコネでそれなりに大きい防水会社に勤めた。その情報を最後に同窓会でも道端でも会ったことがなかったのでどうしているか気になっていた。

 

最近YがTらしき人物を駅前の1パチで見かけたらしい。仕事帰りにもう一度1パチの前を通ると、Tは縁石に座り、ワンカップを片手に虚ろな目で空を見上げていたとのことだった。

 

生活保護か何かで暮らしているのかもしれないが、今どきSNSやLINEなど、やろうと思えばいくらでも助けを求めることはできるのではないだろうか。

 

 

おれが横須賀にいたら助けてやりたかった。友達なんだから。

 

祖母

去年の夏ごろ、祖母が亡くなった。

 

全く連絡を取っていなかった親父から電話が来て、老衰で死んだと伝えられた。

そうか、と一言言った。

 

離婚したてのころから、祖母はおれにいじめられていると親戚に言い回り、週に1,2回は説教をされていた。何もしていないのにどうしてなんだろうと思っていたが、今考えればおれも相当精神的におかしかったし、祖母も統合失調症か何かだったのだと思う。だが、そこまで言うほどのものだったのだろうか。そもそも普通は親戚ではなく親父に言うだろう。

 

祖母は金でしか愛情表現ができない人だった。たとえ私生活や運営しているアパートの資金繰りが難しくなっても、親父に頼まれれば現金を出していた。それを後からおれに愚痴って来るのが日常で、内容が内容だったので中学生のおれにはかなりつらかった。

 

うちはそんなに金が無いのかと、次第に節約する習慣がついていった。節約と言っても家族全員が協力してくれるはずもないので、個人的にメシを食べなくなったり買い食いを全くしなくなるなど、ひどく極端なものになっていった。

 

そのくせ祖母が出す料理は山盛りの天ぷら、とんかつ、ステーキなど、おそらく高価格帯のものだった。野菜は親父が嫌いなので一切出てこない。海沿いなのでたまに煮魚などは出てきたが、栄養価が偏っていき、中学生にして高脂血症になった。

 

なぜ栄養価を考えないのかと祖母に質問すると「若い衆にはこういうものを食べさせていた」と言われた。最初はなんとも思わなかったが、何度聞いても同じ答えが返ってきた。祖母は昔ずっと自営業で、若い社員やアルバイトに精の付く食事を提供していたらしい。ただ、その人たちにも家があり、それなりにちゃんとした食生活をしていたのではないか。お前にとっておれは血縁がなく、ただの若い人間にすぎないのか。何度言っても無駄なので、全く食事を取らなくなり、拒食症気味になった。

 

医者にかかる金は一番ケチられていた。高校生までに高脂血症の他にも虫歯(全歯)、皮膚病、顎関節症など様々な病気にかかった。姉と暮らしているときにすべて直したが、顎関節症だけは治らず、今でも顎は歪んでいるし痛みもある。

 

身長160cm台に対して体重が40kg程度しかなくなった。顎関節症で肥大化した顎は痩せたせいでどんどん目立つようになり、元々あった醜形恐怖が悪化し、学校もほとんどいけなくなった。

 

成績はそこまで悪くなかったので、出席日数を計算して高校を卒業した。大学に行く金はないから就職しろと言われていたので何の勉強もしなかったのだが、ギリギリになってどうして勉強しなかったのかと祖母に怒られた。言葉に責任を持ってほしい。

 

親父が家で暴れて警察を呼べと祖母に言われて呼ぼうとしたら、本当に呼ぶ馬鹿がいるかと叱られたことがある。おれは茶番劇がしたいなら劇団にでも入ってくれと怒った。

 

それからしばらくして姉と暮らしたのだが、みんなで楽しく夕飯を食べているときに「お父さんが自殺未遂をしました」と警察から電話がかかってきたことがある。

 

「どうしますか」

「生きてるなら放っておいてください」

 

とくに怪我もないらしいのでそのまま解放されたそうだが、二階から飛び降りただけで死ねるわけがないだろ、おれでも着地できるよと、姉と笑いながら晩酌をしていた。

祖母はそのとき既にボケていたので、知る由もない。

 

葬式のとき、棺桶に入った祖母を親父と一緒に着替えさせた。

 

「綺麗に化粧してるね」

 

と親父は言ったが、自分が失明するまで殴って、へこんでいる目蓋には気づかなかったのだろうか。

おれはそれだけが悲しかった。

 

 

 

 

破壊

毎日幼馴染とサッカーをしていた。

幼稚園のころからほぼ毎日遊んでいて、小学生になったらサッカーを習いたいと親父に言っていた。

 

小学校2年生になり、親父がサッカーを習わせてやるというので喜んでグラウンドに行くと、なぜかバットとグローブが置いてあった。

 

「おれの息子なんだから野球をやれ」

と言われた。その場で泣き叫び、絶対にやらないという意思表示をしたが、それは一発の拳によりかき消された。家に帰ったあともゴネたが、親子の縁を切るぞと非常に頭の悪いことを言われた。

 

泣きながら練習をしていると、同じチームであろう同級生がグラウンドに来たので、さすがに泣くのはやめた。野球なんてルールすら知らないし、投げ方も打ち方も一切わからなかった。

 

それからは以前にも増して地獄のような日々だった。ボールを上手く投げられないとバットで叩かれ、連続でノックを捕球できないと最初からやり直し。イライラすると取れないようなライナーを打ってきた。

 

こうした意味があるのかどうかもわからない練習を、親父が帰ってくる20時から24時までやっていた。しかも練習場所は家の前で、地面はコンクリートだった。

それでも親父は飛び込め、スライディングしろと言った。やらなければボールを投げつけられたが、硬い地面に飛び込んだ時はボールよりも遥かに痛かった。

 

8歳にして深夜に眠る生活となった。朝は起きられるわけがなく、次第に自律神経にも変化が現れ、まもなくひどいチック症になった。

 

最初はビートたけしのように片方の肩が上がった。身内におかしいと言われて我慢していたら、今度は石原慎太郎のように強く瞬きするようになった。閉じるのを我慢していたら過剰に見開くようになり、それもおかしいと言われ、、手の指をカチカチ慣らす奇妙な癖がついてしまった。しかしこれは誰にも咎められることがなかったので、なんと現在まで継続している。イメージとしてはMONSTERのルンゲ警部のような感じ。

 

心配した母が小児科へ連れて行ってくれた。その時にチック症の診断が出たのだが、それを父親に伝えても怒ったり殴ったりする一方だった。かなり激しい家庭環境になり、小学校2年生から4年生くらいまでの記憶がほとんど抜け落ちている。完全に記憶を取り戻したらPTSDか何かで死んでしまうのではないかくらい思っているので、無い物は無いままでいい。見なくていい物もある。

 

「毎日子供の泣き叫ぶ声が聞こえる」と近所から通報され、警察が来たこともあった。当時おれは偉い子だったので警察に「これは僕が好きでやってるんだ」と話したらしい。こうした子供の気遣いが世の虐待児を見つかりにくくしている原因なのだろうなと思う。犬ですら虐待されても最初の飼い主には無償の愛情を持つと聞く。

 

この話は氷山の一角に過ぎず、姉がボコボコに殴られて家出したり、母が児童相談所に連絡しようとしたら蹴られたなど様々なことがあった(らしい)。

 

最後は見兼ねた母が一緒に精神科に行こうと親父に言ったところ、頭がおかしいと言うのかと叫んで暴れ、母から離婚を申し出たと、十数年ぶりに会った母から直接聞いた。

 

中学のころ、人格障害と家庭環境の相関性についての論文を書いたことがある。マーガレット=マーラーによれば幼児期に出来た基盤はそのまま青年期まで引き継がれ、潜在意識の中でもその過程や記憶は人格を左右すると文献にあった。

 

おれの基盤は破壊され、歪んだまま大人になってしまった。腕の傷を子どもに指摘されたこともあるが、「昔トラと闘う仕事をしてたんだよ」と伝えたところ、「すごいね!」と言われた。妻は爆笑していた。楽しい家庭を築けたことが、おれにとっての新しい基盤になってほしいと心から思う。

 

 

チャリ

横須賀を捨てた。

 

チャリで来たとか地元LOVEとかいうプリクラがよくあるが、おれもその類のガキだった。

 

京急久里浜から横浜駅までチャリで走った時、小学生だったので半日はかかったと思う。帰る気力がなくなり、そのへんに投げ捨てて電車で帰った。どうせパクったチャリだった。

 

逆に平成町まで歩いたときは電車がないので、LIVINの駐車場でカギのかかっていないチャリを必死に探し、無理やり二人乗りで帰った。3人で行ったせいで不運にもじゃんけんで負けてしまった砂川くんは走って帰ることとなった。

 

うちは京急線が走るガードレール沿いにあった。3階建ての家がガードレールに密接していたので、その下は雨風が凌げるちょうどいい溜まり場となっていた。そんなところに溜まる人間は想像がつくと思うが、金髪半ヘル原付2ケツという感じの中高生だったので、そのへんにパクっていらなくなったチャリを捨てておくとハンドルをカマキリにして勝手に持って行ってくれた。

ただ夜中にタイマンを張ったりシンナーか何かでラリるのはうるさいからやめてほしかった。

 

とにかくチャリがパクられる街で、もちろん自分のチャリもよくパクられていた。一度だけ盗まれたチャリが帰ったことがあったが、後輪が潰れ、サドルの上には焼きそばにカツオ節をかけたような謎の食べ物が置いてあった。気持ち悪いのでそのまま放置していたらいつの間にか撤去されていたが、酔っ払った親父がそのまま乗ってどこかに置いてきたと後から聞いた。

 

中学校進学に伴い久々に金を出してチャリを買った。坂道の上にあるプラモ屋、30分かけてようやく辿り着くゲーム屋、店のばあちゃんがボケているので何でもパクれる駄菓子屋。このチャリは相当酷使したと思う。

高校へ通うまで使ったが、サドルが抜かれたことによりまた新しくチャリを買った。3速のママチャリだったが、一気に変速しようとすると必ずチェーンが外れるポンコツだった。チェーンが外れたときは徒歩で通学している友達とチャリを押しながら帰った。逆に調子が良いときは海沿いを全力で飛ばしながら帰った。

 

チャリがあってこその青春であり、それでこその横須賀だったと思う。

 

所帯を持ってから車で横須賀に帰ったことがある。

 

あれ、横浜までってこんなに近かったっけ。

 

失われた2年間

2年間だけ、一人暮らしをしていた時期がある。

 

姉と姪っ子と3人で暮らしていたとき、姉が再婚し身籠ったことをきっかけに独り立ちすることを決めた。姉自身も手伝ってくれた。

 

3年ほどバイトとして勤めていた喫茶店を辞め、なるべく都会に近いところで働こうとしていた。まずは賃貸を探した。

 

「都内で安いアパートってないですか」

「風呂ないしトイレ共同だけど大丈夫?」

 

こういうくだりを数回続けたが、結局都内は諦め、横浜市内でなるべくアクセスの良い場所を選んだ。紹介された建物の住所は4と9が並び、部屋は煩悩の数字である”108”号室だった。不謹慎厨なのでここしかないなと思い住んでみたものの、警察から以前住んでいた韓国人らしき人宛てに黄色い封筒が来るし、夜中には変な声が響いていた。どう考えても事故物件だったが、他室と比べて1万円くらい安いし、月収7万しか稼いでいなかったおれには何でもよかった。

 

月収およそ7万のフリーターがどうやって5万6千円の賃貸に住んでいたか教えよう。

 

まず冷蔵庫がない。常備菜のみを買い、どうしても生モノが食べたくなったらその日のうちに調理する。玉ねぎ・にんじん・じゃがいも以外は滅多に食べなかったので、1日分の野菜を毎日飲んでいたが、あくまでも栄養価を補うためのものらしく栄養失調になったことがある。1日分の野菜を名乗るのをやめた方がいいと思う。

 

肉類は皮膚がめくれてきたり貧血気味の時にしか買わない。基本はフォロワーのメンヘラから送られてきたパスタなどの保存食で凌いでいた。賃貸に住んでいるのに登山用の非常食が送られてきたこともある。

 

炊飯器もなかったので1合分を電子レンジで炊けるタッパーのようなものを100均で買った。米は貴重であり、夜に1合しか食べなかった。そのせいで体重はみるみる減り、最終的には43kgくらいになった。

 

洗濯機はなく、風呂場で手洗いしていた。タオル等はそのまま干すと武器になるくらい硬かった。

 

光熱費は極限までケチっていたため照明はつけず、夕方以降はパソコンの明かりが部屋を照らしていた。そのため間違えてタバコのフィルターを燃やしてしまったことが多々ある。

 

低所得層あるあるとしては、いくら貧困でもタバコと酒は切らさないということ。栄養失調になったときもタバコは吸っていた。

 

電気  3,000円

ガス  2,000円

水道  3,000円

ネット 1,500円

 

限界まで節約していたつもりだが、ここに家賃を足すと食費を出すとほとんど余らない。しかも確実に7万を稼いでいたわけではないし、夕飯しか食べない時期もあった。昼食は値引きされた50円の菓子パンだけだった。

 

心身共に披露していたのでそのバイトも3ヶ月程度で辞めてしまい、ほとんど会ったこともない女性に資金を出してもらうなど、最悪な生活を送っていた。後半になると踏み倒していた分の家賃や奨学金が払えない金額になり、女性の親に全てを工面してもらい凌ぐことができた。

 

今までよく生きてきたなといつも思う。死にたかったから周りに感謝したいとかはないけど、持って生まれた悪運の強さだけでここまで来れたのだと思うと親に感謝したい。いやむしろ恨んでいるが。

 

金もない、性格も悪い、体は虚弱。しかし家族だけはいつもくだらないことで笑っていてほしいなと思う。

笑顔の無い家庭で育ったので。

 

12歳の頃だった。

離婚をしたばかりで親父が狂い、祖母がボケ始めた。まぁ元から狂っていたのだが、当時のおれは気づかなかった。

 

親父が寂しさを埋めるために犬を飼いたいと言い出した。面倒くさいし親父に世話ができるわけがないのでやめろと言ったが、翌日には連れてきた。

 

1か月程度は何事もなかったが、しばらくして重度のアレルギーを持っていることが分かった。アレルギーの配慮食に月々1万くらいかかるのだが、祖母は金がないと言って適当なドッグフードを与えていた。もちろん症状が出るのですぐに病院送りとなった。金がかかることがわかると、祖母はすぐに臭い物扱いをするようになった。

 

犬に全くしつけをしないので、至る所に排泄するようになってしまった。親父はどうしてわからないのだと暴力を振るうようになった。殴ったり蹴り飛ばすことでしかわからせる術を知らないのだから仕方ない。幼いなりに調べたがこれは逆効果であり、自分が子犬のように弱いものだとアピールするためにこのようになるということだった。したがって最悪のループに入ってしまい、見ている方もおかしくなりそうだった。

 

犬は少し手を振り上げるだけで震えるようになったが、虐げられている者同士おれとは信頼関係があった(と思っている)。思春期のおれにとって散歩をする時間は友達との時間が潰れるので少々邪険にしてしまっていた時期もあるが、年々躁鬱が悪化してきたせいもあり、友人よりも犬との時間を大事にするようになった。休日の朝、散歩をしているときのことだった。

 

10年ぶりに姉から電話が来た。実家を捨てて一緒に住まないかということだった。これは人生を変えるチャンスだと思い、勇気を出して親父に伝えてみると、あっさりOKされた。これは親父の特性なのだが、一度許したことに対して後から異常なまでの激昂を見せる。案の定このときもいきなり殴られ、犬と一緒に家を出ていけと言われた。自分が勝手に買ったくせに犬も要らないのかと悲しくなったが、近所の人にお金を借り、寝巻のままタクシーで姉の家に向かった。

 

横須賀には訳アリの人間が多い。そのせいかタクシーの運転手も黙って乗せてくれて、お代はいらないからがんばれよと最後に一言励まされた。

 

さて、無一文で着る服もない。これからどうしようかと思っていると、家に着くなり姉は服屋と美容室に連れて行ってくれた。犬も綺麗にトリミングし、一気に垢抜けたようになった。

 

17歳からキャバ嬢をやっていた姉は、出産してすぐ中国人の旦那と別れ、すぐに復帰して荒稼ぎしているとのことだった。姉と姪っ子と3人で住むことになったが、毎日違う男性が家に来る生活にしばらく慣れなかった。

 

そのうち若い兄ちゃんが住み着くようになり、毎日アドホックでモンハンをしたり、楽しい生活が始まった。そして姉と暮らして4年が経つころ、親父から犬だけでも返してほしいと姉に電話があった。

 

ほとぼりが冷めていたし、姉の家を出て一人で生活する予定だったので、もう暴力は振るわないという約束で返してしまった。冷静に考えて一度出ていけと言ったのによく電話をしてくるなと思う。約束をしたところで守ってくれるわけはないだろうが、どうしようもなかった。当時フリーターだったので犬を飼える賃貸に住める資金も、世話をする時間もなかった。

 

一人暮らしをしたあとに結婚し、おれは東北で暮らし始めた。犬は13歳で病死したと聞いていたが、実際は治療する金がなく、医者にもらった薬で安楽死させたらしい。摘出すれば治る病気だった。

 

大好きだったよ、スキップ。