虫の息

おれは陽気なカブトムシ

事務員のジレンマ

神奈川から宮城へ越してきて、およそ6年が経つ。もともとパソコン関係の専門学校を卒業し、ヒモやフリーターも経由したが、まともな仕事をしていた時期はデータ処理やビリングをしていた。

 

宮城に越してきたあともそういった関係の仕事をしたいと思っていたが、田舎のド真ん中であり、IT系(笑)の仕事をするためには仙台市まで出る必要があった。

 

ここで第一の関門に当たる。

どの求人を見ても「普通自動車免許必須」という記載があった。横浜横須賀で働くうえでは、そもそもよほど僻地に住んでいるか好きな奴以外は車の免許なんて持っていなかった。路線は縦横無尽に走り、久里浜から東京までだって京急横須賀線などの足はあった。

 

しかしここは見渡す限り田んぼしかない。仙台市まで片道25キロくらいだが、1日に数本しかない高速バスか、泉中央から電車で通うしか術はなかった。

仕方なく嫁の祖父母から金をもらって自動車学校に通い、卒業したらすぐに原付を手に入れた。近場ですぐ働けそうなところを見つけたかった。

 

データ系の仕事がないのはわかっていたのでせめて事務系を探していたわけだが、女性しか募集していなかった。

しかも給与はせいぜい12万程度で、扶養などで引かれたら10万も満たないのではないかと思う。

 

ここで詰んでしまったおれは、田舎には土建屋しかねえど!という義父に言葉に従い、一念発起で鉄骨の運び屋を選んだ。イベント設営系だったが、夥しい量の鉄骨やテントを運び、ユニックで数百キロもある足場を吊るなどオタクにはとてもつらい内容だった。

 

2週間ほど働いたころから体の様子がおかしくなった。いつも通り鉄骨を肩に上げて運んでいると、全く力が入らなくなってしまった。嫁や子供のためだと踏ん張ってみても、びくりともしなかった。実は最初の数日で体の限界を感じていたおれは、その場で泣き崩れてしまった。家族のためと思っても体を動かせない自分が情けなかった。その日は早退し、椎間板ヘルニアを患っていたことも発覚し、結局辞めてしまった。

 

次の仕事は胡散臭い派遣会社の正職だった。免許を取って1ヶ月程度だったが、いきなり仙台市の外れまで通うことになった。

安い軽(マツダスピアーノ)をすぐに買い、翌日から往復50キロ以上を運転することになった。スピアーノはかわいそうなことに出勤初日から大型トラックに当て逃げされ、購入後2日で運転席のドアにバルログに切り刻まれたような傷ができた。

 

ここの会社はかなりヤバく、常務の横領がバレて1年足らずで退職することになった。スピアーノは犠牲になったのだ。

 

次の職場は絶対事務系にしようと思い、田舎にしてはそれなりの待遇の会社に応募した。応募期間が切れてしまっていたが、身内に知り合いがいたらしく面接と試験はさせてもらえることになった。田舎は狭い。

 

黒いモグラみたいな顔をした金の話しかしないじいさんが面接官だった。創作の物語を書かされたり、簡単な打ち込み作業をさせられ、1時間程度で終わって翌週には採用になった。

 

これが現在の職場となる。

しかしやっと事務職ができると喜んでいたのも束の間、軽トラで米を30袋運んでくれないかとの指令をいただいた。その日は雨で、濡らさないように詰め込み、ブルーシートをかけながら慎重に運んだ。マニュアルも初心者なので2回くらいエンストしたと思う。昼から19時ごろまで走り回り、150キロくらい走った記憶がある。宮城の道もわからないのでGoogleマップを頼りになんとか運びきった。

 

こういうことがしょっちゅうあるわけではないだろうと高を括っていたのだが、その後も土を運んだり刈った芝を運んで捨てに行くなどほとんど土建屋と変わらない業務をやらされた。鉄骨の運搬は絶対に避けたかったが、行事があると定期的に運ばされる。なんなら朝から運んで1日帰ってこない時もある。

 

結果、米30キロも持てなかったオタクの上腕は徐々に太くなり、背筋や肩周辺がパンプアップされたせいで服のサイズが物によっては2サイズくらい上がってしまった。体重も10キロ以上増えたが見た目は変わらないのでおそらく筋肉なのだと思う。

 

もう筋肉も要らないし荷締めの技術も要らないから、事務仕事だけをさせてほしいと切に願う。