神奈川レポート
夏休み中、姉が住むマンションへ遊びにいった。およそ10年ぶりに会う実母との再会を果たし、母には泣くほど喜ばれた。
初めて会う姪っ子三姉妹とうちの子供が遊んでいる和やかな風景を見て、おれたちも自然と微笑んでいた。
【8/13】
朝7時に宮城を出発してから昼すぎまでほぼぶっ続けで運転していたので、初日から遊ぶ元気はあまりなかった。みんなで家族写真を撮り、母の還暦を祝い、夕飯とケーキを食べたら、ずっとはしゃいでいた子どもたちは気づいたら寝てしまっていた。
すでに時刻は21時を回り、本当は姉宅で酒でもあおりたい気分だったが、さすがに総勢10名が泊まれるスペースはないので、川崎市付近のホテルに2泊することにした。しかしこのホテル、あとからレビューを見て気づいたが、横浜市内でも有数の悪名高い施設だった。
レビューでは
・皮膚病になった
・ベッドの下にベッドが入っていた(?w
・日本で一番汚いと思う
・おれだから耐えられた
・生まれ変わったら絶対に泊まらない
など、かなりの酷評である。
実際に入ってみた感想を入り口から順番に伝えたい。
- フロント
ぱっと見の印象はそこらへんのビジホと変わらない。が、受付のお前…日本は初めてか…?タイか中国かフィリピンかアラブ系かというところで、イマイチ日本語が通用している様子がない。
なんとなくタブレットを見せられ、なんとなく記名し、金額だけは予約サイトと照らし合わせてから払った。立体駐車場の使い方がわからないようで、車庫入れまでに15分もかかった。
- エレベーター
「一晩で35万か…これでおれも大社長だな!」と何かの賭博で勝ったのであろう酔っ払ったおっさんがエレベーターに乗り込む。怖いので同乗はしなかった。
だれもいないことを確認してからエレベーターに乗り込む。ギギギ…と音を出しながら高速で上昇するエレベーター。9階フロアに到着すると、タバコとゲロと香水が混ざったような臭いがした。
- 部屋
なんというか既視感のある構造で、昔行った古い福島のラブホテルを思い出した。洗っているのかいないのかわからないスリッパを履き、ホコリだらけのテーブルに荷物を置いた。
ベッドサイドにキャスター付きのテーブルがあったので動かそうとすると、キャスター部分からひっくり返った。なんとこのテーブル、テーブルではなく壊れた椅子だった。
- バスルーム
ここまでくるともはや面白い。トイレはトイレ本体とペーパーホルダーの距離がありすぎて少し立たないと手が届かない。天井と壁はカビだらけで、変な臭いがする。
嫁には言わなかったがトイレと浴槽の排水が繋がっているようで、広めの排水口からはトイレットペーパーが見えていた。ちなみにこのトイレットペーパーはおれがウンコをする以前から見えていたものである。
お湯の調整が難しい。少しシャワーのお湯をひねっただけなのに指先をやけどしてしまった。とくせい:こんじょうではない。
- 部屋再び
隣の部屋から喘ぎ声なのかゲロを吐いているのかわからない女の声が聞こえてくる。キメセクかなと思ったが、男の声は一切せず、しばらくしたら女のせせり泣くような声だけが響いていた。
25時頃、廊下で明らかにゲロを吐いている声が聞こえてきた。聞き耳を立てると、女性3,4人が酔い潰れた友達を介護しているようだった。
おそるべし鶴見。港北区を超える治安の悪さである。誰も部屋に入ってこないよう、厳重に鍵をかけてから眠りについた。
【8/14】
翌日、当初から予定していた横須賀のモンハンラリーに参加した。各地に点在する足跡をスマホで写し、ARのモンスターを集めようという企画である。一瞬だけARを使ってみたが、あまりにもしょぼいのでバルーン巡りに予定を変更した。
コースカ(旧ダイエー)で姉家族と待ち合わせをしていた。なんとコースカにはセルレギオスがいるらしい。姉・嫁・母・次男・姪次女組と、おれ・義兄・長男・姪三女組に分かれて行動を開始した。
セルレギオス探そうぜ!となってから2分くらいで正面入り口付近にセルレギオスを発見。意外と小さい。最小金冠か?足元にタル爆を置かれまくっていることに悪意を感じた。
シャドーボクシングのポーズで記念撮影を済ませたら、電車で横須賀中央駅に向かった。
長男は物心ついてから初めて電車に乗る。汐入から横須賀中央までは京急線の各駅停車で一本だが、それでもややびびった様子で運転席を見ていた。
横須賀中央に到着すると、隣接しているモアーズシティでラージャンを探すことにした。とくにリーク情報もなく、ネットで場所を探していると、なんとなくイタリアっぽい石畳に立っているラージャンの画像を見つけた。改装されてなければ、この石畳は最上階のレストランフロアである。
「これ最上階じゃん!」という気づきには、少年に戻ったような感動があった。エスカレーターで最上階まで行くと、長男くらいの年齢の男の子と、祖父母ではなく両親であろう晩婚夫婦がいた。隣にはバンギャ上がりみたいなすごい髪色のネエチャンがいて、中々にカオスな空間ができあがっていた。こちらも若い男2人と幼児2人なので十分に怪しい。
エスカレーターの脇に立つような形で毛むくじゃらのラージャン、毛むくラージャンがそびえ立っていた。本当にバルーンなのかと思わせるような造形で、よだれまでが完璧に再現されていた。長男が食われるシーンを撮影し、とても満足した。
ここまででかなり歩いたのだが、どうしてもジンオウガに会いたかったので、横須賀市役所へ向かった。
中央通りは、ゲーセンと焼鳥屋以外記憶にある店がほとんどなかった。モンハンラリーということでけっこう人がいるのではないかと懸念していたが、わりとスカスカでよかった(横スカw)。
最初にオトモガルク搭乗キャンペーンに参加した。義兄が一番ノリノリで、二人でふざけながら写真を撮りまくった。ガルクだけ作り込みが異常で、ほぼゲーム画面を見ているような感覚だった。
いよいよジンオウガとの対面である。シャンデリアが照らすホールの中、ホールの半分を占領する大きさのジンオウガが見える。いやデカい。想像の1.5倍はある。
「これハンマーのかち上げで頭届かなくね?」「こんなの目の前に現れたら手も足も出ないよねえ」「ハンターすげえよ…」と、気づけば義兄と妄想の世界で会話をしていた。
ジンオウガは、おれがモンハンシリーズの中で最も好きなモンスである。喜びのあまりジェスチャー“ボックスダンス”を踊っていたら、オタクくんたちが早くしろよみたいな目でこちらを睨んでいた。※夢中になりすぎて長蛇の列ができていたことに気づかなかった。
ジンオウガの横にあった飛び出すラージャン(トリックバルーン)で記念撮影をし、姉から「早く帰ってこい」とキレ気味の電話が入ったので、コースカへ戻ることとなった。
コースカで昼食を済ますと、再び姉宅へ戻った。本当はみなとみらいにも三浦方面にも行きたかったが、何よりもう二度と会えないかもしれない母との時間を過ごしたかった。
昨日はあまり喋らなかった姪っ子たちも、だんだん打ち解けてきたらしい。長女(15)次女(9)三女(2)という年齢差で、次女と長男、次男と三女という感じで遊んでいた。
意外だったのが、嫁と長女だった。サブカルチャーに詳しい嫁と、Vtuberガチ勢みたいになってきている長女は、思いのほか馬が合ったらしい。絵の描き方を教わっている姿は、姉妹のようだった。
夕飯に何を食べたのか忘れてしまった。それだけ楽しい時間を過ごしたということだと思う。三女を膝に乗せてふざけていると、明日には帰るという寂しさで胸がいっぱいになった。どうしても帰らないとゴネる長男を無理やり引き離すと、逃げるように玄関を出た。姉は涙目になり、三女は次男の名前を叫んでいた。
ホテルに戻る途中、生麦へ続く湾岸道路を走った。左にみなとみらい、右に川崎の工業地帯が見える。長男が泣いている声が聞こえるので振り向くと、次女からもらったポケモンの絵を見ていた。こういう経験も、成長に繋がるのだろうなと思う。
汚いホテルに到着すると、何もしないで泥のように眠った。良い想い出も悪い想い出も、全て忘れたかった。明日の朝には全部忘れているだろうか。
【8/15】
朝7時頃、全員がほぼ同時に起きた。身支度をし、汚いホテルにさよならを告げた。本当はシーパラに行きたかったが、このホテルがちょうど綱島街道に面していたため、そのまま綱島に行った。
何度も言うが綱島にはたくさんの思い出がある(以下略)。
ラウワンの駐車場が無料のため、しばらく車を置いておくことにした。駅の方に向かい、河川敷を歩き、川にいるドジョウやサワガニを眺めていると、頭上を東横線が走る。その轟音に長男も次男も耳を塞いでいた。
行きつけだった商店系列の家系が、こんなときに限って改装してやがった。ふざきんな11!!!仕方がないのでおれらが行ったことのない製麺所のようなところで昼食をとることにした。
一口食べても、スープを飲んでも、コレジャナイ感がすごい。麺もちゃんと作られていて、スープもよくわからない深い味がした。おれは化学調味料を使った雑でパワーのある感じが欲しかったんだよ。完全に萎えて、ラウワンでイニDをやりまくった。
菊名まで戻るのも馬鹿らしいので、東京の真ん中を突っ切ることにした。
「荏原」とかいう湾岸ミッドナイトでしか聞いたことのないICから常磐道に抜ける作戦を実行した。おれが乗るダイハツ ネイキッドは軽自動車であることを考慮しても瞬間的な加速が苦手であり、どちらかというとオフロードを走る車なので、高速は向いていない。ATなのに少々の勾配でも2速3速を駆使しなければ登らないレベルである。
首都高や湾岸線は、ジャンクションが多いために曲がりながら登っていく道が多い。仕方なく仙台ナンバーのヤマザキパントラックに張り付き、後ろからビュンビュン来る高級車をやり過ごした。
常磐道からはあっという間に宮城へ入り、疲れたので多賀城ICから降りると、そのままゆっくりと帰路へついた。
【8/16】
神奈川へ帰ろうと本気で思った。姉や嫁と相談し、帰る算段まで立てたところで義祖父から連絡が来た。
「今の仕事じゃ給料も低いと思うし、うちの会社が新規の営業所を立ち上げたから、働いてみないか」今さら強めのカードを切ってくるんじゃないよ。しかしおれも負けず、神奈川へ帰ることを考えていることを話してみる。
「横浜に営業所があるから、その気になれば帰れるよ」 …もう魔法カードじゃん。
「今週末に社長(叔父)と話してくれ」 …展開早いな!
こうしておれは転職と同時に神奈川へ帰るビジョンを獲得したのである。今週末(9/1現在)マジで社長と話してくるので、報告を待っていてほしい。
次回、「カイ=ロス、死す」お楽しみに。
7月21日
25年前の7月。
チャイムが鳴り、ランドセルと道具箱のほかにもピアニカや体操着、最後はアサガオの鉢を抱えることになったおれは、フル装備のスコープドッグのようになっていた。
「当日までに少しずつ持って帰らなきゃいけないって言ったのに」と母に叱られた。そんなことは知っているが、毎日放課後に友だちと遊ぶためには重装備では走り回ることすらできなかった。
“ゾウの時間ネズミの時間”という話があるように、脈の速いネズミにとってはたった20日間でも生涯を遂げるほど長く感じてしまう。したがって小学校1年生にとって夏休みはとても長い。
初日からさっそく遊ぶ約束をしていた友だちの家に向かった。
父親のパソコンバッグにNintendo64とカセットを入れてチャリのカゴに乗せる。後輪には二人乗りが出来るように謎の棒(名前がわからない)をつけていた。
クラスメイトの「マサキ」の家には64が無い。スーファミやセガサターンで遊ぶのは限界があり、トレンドである64を持ってきてほしいといつもお願いされていた。他の所持品といえばゲームボーイと通信ケーブル、水筒とタオルくらいだった。
マサキは1学期からいじめられ気味で、おれが持っている通信ケーブルはマサキからパクったものだった。マサキという名前なので、ポケモンのネタを振ると「ポケモンちゃうわいw」と作中のマサキの真似をしてくれた。しかも弟の名前が「サトシ」なので、非常にポケモンネタと親和性のある兄弟だった。
“バンジョーとカズーイの大冒険”を死んだら交代制でプレイしていると、約束していたもう1人の友だち「ナオキ」が遊びに来た。ナオキはメガネ+天パというオタクフェイスなのだが、見た目に反して全然オタクじゃないかわいそうな奴だった。
ナオキはかなり甘やかされて育っているので、ちょいちょい理不尽なワガママを挟んでくる。いきなり「ゲーム終わったら海に泳ぎに行こうぜ」などと言われても、お前は海岸沿いのマンションに住んでいるけどおれはチャリで30分なんだよと言いたくなる。スマブラでもすぐにリセットしてくるし、ちょっと苦手なタイプだった。
マサキの家はクーラーの効きが悪く、お母さんが出してくれた麦茶の氷がすぐに溶けてしまった。伝う汗が指に滴り、コントローラーが滑る。崖外で空後を出していたピカチュウがセクターZの下に落ちてゲームセットとなった。
ナオキが発案した海水浴は暗黙の了解によって淘汰され、近所の駄菓子屋へ向かった。
ここの駄菓子屋のばあさんはボケていて、いくらでも万引きできる。
ブタメンは「当たりが出た」といえば永久機関と化した。友だちの当たりをたくさん集めて持っていったこともあるが、数年後には潰れてしまったので悪いことをしたなと思う。
横須賀市久里浜にはペリー公園という黒船来航を記念した公園がある。浦賀に来たと言われているが、昔は久里浜も浦賀の一部であり、現在の久里浜海岸あたりに来航したと聞いている(諸説ある)。
公園敷地内の“ペリー記念館”の隣には屋根付きのベンチがあり、いつもホームレスが寝ていた。ホームレスにちょっかいを出すのは地元の小学生の度胸試しであり、数名が集まると誰かしらがホームレスに対する嫌がらせを提案してくる。
同じクラスの奴がエアガンを発砲しているのを見たことがあるが、おれたちにそんな度胸はない。一度ホームレスが持っていたカバンを持って逃げたことがあるが、隣町付近まで追いかけてきてめちゃくちゃ怖かったので挑発は自粛することにしていた。
ペリー公園でサッカーをしていたら、やっぱり海に行きたくなってしまった。といってもペリー公園は久里浜海岸の目の前である。
熱い岸壁に座り、海と空を仰ぎながら駄菓子屋でパクったゼリーを飲む。上に開け口があるのに、底の部分を噛み切って飲んでしまうのは小学生のサガなのかもしれない。
目に入る汗と蜃気楼で、真っ直ぐなはずの岸壁は大きく歪んで見えた。17時、夕焼けを見るためにはあと2時間はかかるので、おれたちはそれぞれの帰路につくこととした。
自転車のサドルが熱い。晩ごはんは何だろう。今日はポケモンがやってる日だっけ。明日は早く起きてビーダマンで遊ぼう。帰り道はいつも暑さと楽しみに溢れていた。
もう、横須賀に帰る理由も居場所もなくなってしまった。
今年も久里浜の海は暑いだろうか。
いつか帰るところ
戸建ての件は、本気で諦めることになった。
“ブラックでも建てられる”と言う住宅会社は、ローンをまとめることができるよ、軽減措置があるよという意味合いのことを謳っているだけである。
低収入で奨学金を滞納していて様々な履歴があるドブラックについては何の対処もできない。
今年の2月頃、新人であろう営業マンが昆虫ハウスに訪れた。千葉出身で雪に慣れないと凍えながら話す青年は、東北へ飛ばされたために妻と子どもを幕張に置いてきてしまったと悲しげに語った。
「家なんか建てられないよ、おれブラックだから」と伝えると、それでも頑張りますと言う。
どうやっておれみたいなクズをカモろうとしているのかと思っていたら、案の定身内名義でリバースモーゲージを組まないかとか、今のローンを低金利の銀行ローンでまとめないかとか、想像に容易い言葉をつらつらと並べてきた。ローンなんか奨学金以外無い。
30分くらいおれと嫁を取り巻く最悪な親族関係を話して、諦めてくれるかとおもいきや、それでもCICに情報開示を求めるとか、いろんな銀行で仮審査を通してみるだとか、ノルマで切羽詰まってんのかと思うような熱量で話を展開してきた。
実際住宅展示場に行ったこともあるし、いろんなことの話し合いをしてきたが、いつも初日に提案してきた方法以外の展開はなかった。
それから半年、とうとう営業が金融担当に投げた。金融担当から連絡が来ると言われてからさらに1ヶ月が経過した頃、お偉いさんっぽい人から電話が来て、降りないかという話を振られた。
あぁ、もう完全に無理だと確信した。金利は9月から元に戻る可能性が高いし、おれが自力で家を建てられる可能性は死んだ身内の遺産をもらうか宝くじで当たるくらいしかない。
そしてそれだけ頑張っていた担当が挫かれるほどおれの属性が最悪だったのだろうということも察した。
そこまで戸建てにこだわらなくても…と思う人に理由を説こう。おれの実家は横須賀と横浜に“あった”。両家とも身内の借金やら担保やらで売りさばかれてしまったのである。
おれ自身、実家がないことで苦労したことがたくさんあったので、どうしても子どもたちにいつか帰るところ(FF9ではない)を残してあげたかった。
たったそれだけのくだらない執着のために、みんなに期待を持たせてしまった。
妻も仕事を辞めたし、自分が出世することはないだろうし、身の丈に合わないことはしないほうがいいという良い教訓になった。
仮に家を建てられたとしても身内の二の舞いになりかねない。
ゴミはゴミらしく小さく生きて、小さく死んでいこうと思う。
スピリチュアルメンヘラクソババア
およそ12年ぶりに、母と会う。
最後に会ったのは20歳の頃で、そのときは単身で母の住むベトナムへ飛んだ。おれはよくタイとか東南アジア系のハーフと間違えられるが、父母ともに純粋な日本人である。
ベトナムに住むことになった理由の発端は破天荒の叔父(母の弟)であり、昔からアメリカの大学にいきなり入学したり、海外に飛びまくったり、仕事をコロコロ変えたり、プロのミュージシャン(横須賀サーベルタイガー)をやったりで、少し理解し難い行動をする人だった。
その叔父が突然「ベトナムはIT最後の楽園だ」と言い出し、ベトナムで起業することになったために母の家族はほぼ全員移住することとなった。
メンツは祖父母、叔父夫婦、従兄弟、母と再婚相手という、絶妙な顔揃えである。
この再婚相手はもともとチンピラの下っ端で、連れ子が3人いる。元妻とはどうなったのかおれは知らないが、母がスナックの経営をしていたときにそこの“シマ”を持っていた組の構成員だったらしい(めちゃくちゃ面白い)。
スナックで母と出会い、結婚を約束した直後にムショ入りし、ムショから出てすぐに籍を入れたという話だが、こんな任侠映画みたいな展開が身近に起きていること自体がおれとしてはかなり面白かった。
もはや説明する必要もないと思うが、うちの両親は20年以上前に離婚している。おれが父方で、姉が母方だった。母は離婚当初うつ病がひどく、いろんな男をとっかえひっかえしながら市営マンションに姉と住み、そんな母と暮らしたくなかった姉は、17歳からキャバ嬢をして男の家を転々としていた。母が再婚相手と出会ったのはこの生活から脱却して間もない頃だったという。
今回、母は姉宅へ遊びに来る。コロナで3年ほど飛行機が飛ばなかったので、久々の来日である。最初で最後になるかもしれないので、おれの家族も初めて顔を合わせることになった。
そして長男次男はろくに姉家族と会ったことがなく、嫁も母と初めての対面となるので、知らない者同士総勢10名が一度に会うことになる。もうオフ会だろこれ。
親父にはこのブログで散々触れてきたが、母に関することはほとんど触れていない。母の概要についてすごく砕けた言い方をすると、スピリチュアルメンヘラクソババア。
呪いとか想いとかを信じているタイプで、カラオケでは椎名林檎ばかりを歌う。顔はパーツパーツがおれに似ていて、笑い方までそっくりである。口が悪く、簡単に毒を吐くのも同じ。
そんな母と姉家族と昆虫一家が激突したら、一体どんな化学反応が起こってしまうのだろうか。いろいろな不安はあるが、楽しみがたくさん詰まった神奈川帰省にしたいと思う。
幼年期の終わり
「物心ついてから死にたい」で検索すると、おそろしい数のエッセイ(主にまんさんが書いたもの)が出てくる。
この手の文章を読むと、確実に“自分は特別である”という内容が婉曲的に綴られている。
周囲に聞いたら誰もそんなことを思っていなかった、親に聞いたら驚かれたなど、年齢層も内容も様々である。
多数の人間が意識していない部分に気づいてしまったというある種の優越感に溺れてしまうのだろう。
ネグレクトやその他虐待によって生じた境界性云々ではなく、まっすぐに育てられた女の子たちが死にたいと連呼する理由は何か?そのほとんどは人間関係によるトラブルや気分による一過性の感情らしい。
この感情は、人が永遠という概念を理解できるがために、永遠でないものは終わらせられるということもまた理解することができることによって生まれる問題であり、同時に耐え難いジレンマでもある。
小学生のときに対戦ゲームで負けそうになるたび、リセットボタンを連打するやつがいた。
失敗や負けることが怖いからリセットしようするのは、現在いずれ終了する(永遠ではない)ゲームを遊んでいることを理解しているからである。
スマブラ初代のリザルト画面に入る瞬間に消すやつはマジでやめてほしかった。
なぜ生きねばならないのかという問いに対する答えが明確に存在しないことを、人間は直感的に知っている、という話を聞いたことがある。
永遠に答えが見つからないという事実を“直感的に”理解しているのは、遺伝子的に備わった自己防衛機構だと思う。
つまり前述したまんさんたちは、気づかない限り意識することができないという神が閉ざした禁忌に触れてしまい、結果的にこじらせてしまったのである。神が閉ざした禁忌!
上記の理由により、「これ、私だ…」「みんな死にたいって思ってないらしい」「普通じゃないかも!?」という驚きに似た気持ちが芽生えてしまう。もとい、中二心をくすぐられてしまうのである。
おれも小5くらいからずっとつらくて、なんなら今でも苦しい。無理だと思っていても、家族がいるとわかっていても、頭の隅の希死念慮が消えてくれない。
高校生のころ、人はなんのために生きているのかという疑問について毎日考えていた。
この時点で相当アレなのだが、世界史を専攻していたこともあり、トルストイなどの哲学書を読みまくっていたせいで思い出すのもつらいほどのキツさだった。
偉大な哲学者たちの意見には当時の世界情勢や宗教観などが絡んでいて、あまり参考にはならず、自分のおかれている環境が考え方に与える影響というものは恐ろしいなと思った。
次第に、自発的に考えた目標が生きる意味そのものになることがわかってきた。幼児期から目先の目標立てや将来の夢を考えさせることは、教育指針の基礎である”生きるちから”を育てる第一歩なのかもしれない。
じゃあ、目標がない人間は?これを考えた結果、「種の保存と繁栄」という結論に辿り着いた。
この話をしたら「そのために子供を作ったってこと?」と言われたことがあるが、そう短絡的なことではない。
子育てである。種の保存=子を残す、種の繁栄=子孫を育むこと。
家族と共に時を過ごし、子を成長させ、見守る。そして子が子を残し、繋いでいく。
これは生物の摂理であり、すべての生きとし生けるものが生涯を通して成し得なければならない目標である。つまりおれが考えて辿り着いたのは、人間も一生物であるからには、生物としての普遍的な目標は同じという理論だった。
もちろん既にアイデンティティの獲得に至っている人にはこんな極論は必要ないと思う。
指標や道筋を持たない人間にとって、アイデンティティ形成におけるモラトリアムは苦痛でしかない。自分自身ずっとやりたいことや目標がなく、32歳になろうとしている現在に至っても全くやりたいことが見つからない。
結婚して子供が2人いて、家族と暮らすこと自体がアイデンティティの獲得に繋がりつつあると感じているのだが、妻には「父親」になりすぎて旦那では無くなってしまったと言われた。
それはそう。家族全体を考えるのが親であり、個と個だけの関係ではないと思っている。彼氏→旦那→父と進化するわけではなく、それぞれが別の名詞であり、違う生き物なのだと思う。
しかしながらおれは紛れもなく父であり、父として家族と過ごし、楽しみ、子を守り育てていかなくてはならない。妻が倒れたり生活能力がなくなったりしても、おれにはそれを補えるほどの生活力や子を育む力が必要なのだと思って今まで過ごしてきたが、おれのそういった態度を妻は好ましく思っていないように見えるので、もう少し人を頼って支え合う姿勢を加味していけば、それが父と同時に「旦那」である生き方の獲得に繋がっていくのではないだろうか。
オープンシーズン
4月中旬、東北では各地のキャンプ場がシーズンを迎える。
昨年11月に長男と2人で行ったキャンプでは、人間の限界に挑戦しようということで、マイナス6℃(体感はもっと低い)の中で宿泊に挑んだ。その結果新しく買ったテントが破損し、傍から見たらかなりのサバイバル感が出ていたと思う。
破損と言っても穴が開いた焼けた云々ではなくポールの一部が破損しただけなので、今回はポールの長さを合わせる作業を含めてデイキャンプを強行することにした。
うちで使っているツールームドームテントはリビング部分の張りが足りないと斜めに崩れてしまい、風で簡単に倒れてしまう。
どうしても長さが合わないとなると、新しいカーボンファイバーポールを買わなければならない。それも比較的新しいモデルなので、同じ規格の物は売っていないかもしれない。
長期休みが来る前に破損部分を調べたかったのに、「とうほく゛」の暴風や雪といった気候がそれを許してくれなかった。
もしも修繕が失敗すればデイキャンプ自体がスポイルし、GWのモチベーションも無くなってしまうだろう。修繕目的だろうが子供にとってキャンプはキャンプなので、これは一種の賭けである。
ちなみに11月のキャンプでは長さが合わない部分を木の枝やアルミポールを駆使してなんとか雪風を凌いだのだが、GWのキャンプは嫁の女友達と婚約している彼氏も同行するということなので、これから家族ぐるみで仲良くするのならば失敗は許されない。
壊れかけのbB(エンブレムとグリルがない&バンパーが浮いてる)と崩れかけのテントでキャンプに行ったら、周囲からすれば金が無いのに無理やり趣味を作っている家族のように見えてしまう。実際そのとおりではあるが。
~今まで行ったキャンプ場~
・荒雄湖畔公園キャンプ場
…もはやホームサイトといっても過言ではない。紅葉が綺麗だがほぼ平地。利用料¥500。
・旗坂キャンプ場
…11月に行って死にかけたのはここ。この前見に行ったら雪でキャンプ場ごと埋まってた。
・西浜キャンプ場(山形県)
…長男0歳のときから20回以上は行っている。食べ物、温泉、ロケーション、三拍子揃っているので不満な部分はないが、サバイバル感を求めて始めてからは行っていない。
・神割崎キャンプ場
…南三陸の端っこにある最高のキャンプ場。食べ物はもちろん美味しいしロケーションも最高だが、ものすごい強風でテントが飛ばされる。
・秋保カナダ(日本です)
…オーナーのスティーブは超陽キャの外国人。愛犬であるドーベルマンのベルちゃんにハンバーグやウィンナーをたくさん食べられてしまった。森を利用者の手で切り開きながらキャンプスペースを開拓している面白い場所。
その他いろいろ
とにかく、日曜日にデイキャンプを強行する。場所は仙台市内にある水の森公園キャンプ場。乗り入れ不可は久しぶりだな?
どうせ市内の全身Columbiaの小金持ちがでっかい車でDODのタケノコテントを張っているんだろうけどかまへんかまへん。
いろんなキャンプ場を見てきて思うのは、おしゃれキャンパーはアホばっかり。でっかい棚とか装飾品を死ぬほど持ってきて写真を撮って終わりみたいな家族はSDGsに感化されたほうがいい。
火起こしもしないで発電機を使うなら、おうちの広いお庭でやっててほしいと思う。
GWは栗原市にある金田森キャンプ場。直火禁止、宿泊も基本禁止という場所だが、管理人もマナーのあるキャンパーは暗黙で認めているらしい。つまり焚き火シートがあればOK。宿泊は……知らん顔してればなんとかなる。
P.S.
家を建てる話も、結局流れました。人生に詰みが来ている低所得、今年もキャンプに全力で現実逃避していきたいと思います。
トイレの中から
長男が小学校に入学し、4月11日が初めての単独登校日となった。
前日の夜中に準備物を思い出して、0時半頃までいそいそと書類を見ながら確認していた。計画性の無い親ですまない。
土日に買うものを揃えていてよかった。初登校日に「おまえこれ持ってきてないのかよ」と言われる恥ずかしさは、かつておれも経験したものだった。
朝ごはんは6歳になっても食が進まない。パンでも進まないのに今日は米しかなくて悪いことをしてしまった。遊び食べをして時間に遅れそうになったこともあり、少しキツく叱ってしまったことを後悔している。
名札よし、帽子よし、教科書よし、お道具箱よし。児童館に持っていくお弁当は?大丈夫、お母さんが準備してるから。
4月のはずだが、今日は最高26℃。トムとジェリーの半袖と、朝は寒いのでパーカーを羽織らせた。おれはうんこをしていたので、トイレの中から“いってらっしゃい”を言った。
迷わずに行けるか、1箇所ある横断歩道の無い道路をちゃんと渡れるか、ものすごく心配だった。
その矢先に「忘れ物~」と言いながら戻ってきたものだから、余計に心配になった。
でも泣いたり悲しいような顔を一切しないところを見ると、成長したのだなと思う。
初日は2時間授業で次の日からは給食を食べるようになる。来週から完全授業だから、15時過ぎには児童館で友達と遊ぶようになるのだろうか。中学年に上がれば放課後は公園に溜まるようになり、6年生になったら見向きもしてくれなくなるのかと思うと、想像するだけで悲しい。
だがそんな先のことを考えても仕方がないので、今年もいっぱい遊びに行こうと思った。